磯子高校の森

神奈川県立磯子高等学校にある小さな森を残していきたい。磯子高校の記念としても。

生きものを「教材」にしないという教育の課題

7月26日に、コシアカツバメの巣の真下に、糞を確認(雛のものと推認)した後にも、観察は続きます。とはいっても、その場所に様子を見には行くものの感覚的であり、まだ行き当たりばったりである感じが否めません。観察したことをきちんと記録していく、ポイントを押さえるという態度が明確ではなく、気づいたことや気になったことを取り敢えず、メモを取ったり写真に撮っておこう、くらいのものです。7月は事務的な仕事の進捗(しんちょく)状況によって、気持ちに余裕がなかったりする時期でもあり(余談ですが、事務的って、辞書には感情を交えずに、とありますが、感情がかなり左右される事務仕事って多くありませんか?)、無理せずにちょこちょこ足を運べれば、と思っていたのです。いわゆる計画的ではないわけです。でも、生きものの様子は、直(じか)に目にするのがまぎれもない事実そのものなので(観察したことの考察や解釈は別ですが)、むしろ足を運ぶ回数が増えるほど、自分なりの新鮮な驚きや発見が重なり、一方で新たな疑問が湧き、継続的な様子見(観察)が必要で大切なことであると、改めて思うようになってきたのです。このことは、ツバメに限ったことではなく、生きもの全般について、個人的には今年になってから、さらに意識が変わってきたと思いますし、また自らの行動として変えてきたところでもあります。

そしてツバメに対していえば、以前ブログで触れた、「ツバメへの恩返し」に繋がるかな、と思っているのです。(細やかながら)

こうした取り組みを「趣味」だという人もいるでしょう。ここでいう「趣味」とは、仕事ではない、という意味の「趣味」です。現に、神奈川のある県立高校(磯子高校ではありませんよw)の管理職には、そのような発言をする人物がいます。

理科(生物)のことでいえば、「『興味・関心に応じて』とはどういうことなのか」、「季節に合わせた生きものを、どのように確保するのか」、「時と場所に応じ、そのときの授業形態は、どのようにできるのか」、「『科学的な態度』とは何か」、「『観察』するとは、実際に何をするのか」、「観察の記録や整理の仕方は?」、「観察によって分かって来たことと同時に、何が分からない点として浮かび上がって来たのか」、「先人達によって、今までにどのくらいのことが調べられていて、何が調べられていないのか」、「人にどのように伝えるのか」、「どうすればそのような自主的・主体的な(という言い方をしておきましょう)学びが育まれ深めていけるのか」、「生きものを支えている条件とは」、「生きものと人・社会との関わりとは」、「生息場所はどのように存続されるのか」、「生きものの個々の命が失われるということと、多くの生きものの生活場所となっている緑地等が開発により消失することで、無数ともいえる命が失われることに対してはどう考えるのか」、「自然保護・保全とは」、といったことなどを、対話(現場での、授業における、掲示物を介して等の)を通して、いろいろ身をもって示すことができるのです。外部から講師の方を招かなくとも、小物ながら、内発的な動機に基づき実践をし、自発的に取り組んでいる者が、一人はここにいるのです。

もちろん、ここではブログという表現手段を取っていて、「観察レポート」や「論文」とは体裁が異なります。しかし例えば、学術的な価値があり、「論文」に近づけようとする場合があったとしても、表面的には「趣味」だと言われるでしょう。もちろん、教員に認められている研修の一環として、示すことはできるのですけれど。

個人的に、教育論的な疑問を挙げてみます。教員に認められている研修としての可否に対してもいえるのですが、何でもかんでも、〈生きもの〉を「教材」とし、あるいは「教材化」することがよいことなのかどうか、があります。これは「教材」としての「生き物」を選別すればよい、という話ではありません。ここで言いたいのは、「教材」あるいは「教材化」しなくては、〈生きもの〉を授業で取り上げることができないのだろうか、ということです。

教員の日常の仕事(授業)や研修における成果を問われるとき、それは「教材」あるいは「教材化」から免れることがほぼできません。「成果とその課題」には、「教材」あるいは「教材化」が、関所のように構えているのが見えてしまうのです。説明責任のための、説明のための「生き物」というフィルターがかかってしまうのです。しかし、矛盾しているようですが、そのような見方から、少し距離を置いて〈生きもの〉を見、「教材」ではない、あるいは「教材化」されていない〈生きもの〉を学んでいくことができないか、それが大切ではないかと考えているのです。

お世話になっている方に、ある保育園の園長さんがいます。その方は〈緑〉の中での保育活動を大切にしていらっしゃって、ある時のお話の中で、「〈緑〉は教材ではない」と言われていました。その言葉に刺激を受けました。自分の思考回路はすぐに「教材化」できないか、どうやって授業展開するとよいだろうかと、半ば無意識に考えてしまいがちだったからです。「〈緑〉は教材ではない」、その感覚を何とか取り入れていけないだろうか、それが自分にとっての大きな課題なのです。