磯子高校の森

神奈川県立磯子高等学校にある小さな森を残していきたい。磯子高校の記念としても。

さらなる都市化とその強化がはやいのか、緑の「侵食」がはやいのか

 都市における住宅・建築物の新築・改築によって、そこに棲む生きものたちはさらに追い払われてしまうのではないか--。

 近頃の住宅・建築物を街中で歩いて見ていると、たいへん気になることが多くなった。特にそれぞれのお宅の敷地に目を向けると、とても心配になったりする。どこを見てもコンクリートで覆われ固められている。花壇がないところも増え、プランターや鉢もほとんどない所が少なくない。戸建てはとりわけその傾向が強いように思える。集合住宅は植樹スペースが設けられていたりはするのだけれど……。

 昭和から平成、平成から令和と耐火性、防火性、耐震性の強化が図られ、住宅・建築物の様相はそれ以前と変わって来た。もちろん、それらの進歩によって火災や地震等の災害から命や財産等を守ることができるのは大きなメリットである。

 ベタ基礎と呼ばれる床下全面が鉄筋コンクリートの住宅が多くなった。建物の基礎の周りがコンクリートで強化されている。それ以上に所有面積いっぱいにコンクリートが張られている例がとても増えている。空間があってもそこに土の地面が見えない。つまり、庭の大小にかかわらず、庭に草木がまず無いか、あるいは少ないのである。草が生えている路地も消えつつある。(ここで『庭』と言っているのは土の有無によらない)

 はたして、そういう住宅や路地に、それまでは生活できていた生きものたちが、これまでと同様に子孫を残していけるのだろうか。

 地面に草木が植えられていたり、路地の脇に勝手に生えていた植物や地衣類等が現在、宅地化によって確実に姿を消しているように見える。そして、そのような場所に棲息していた小さな動物たちも数を減らし、種類によっては見かけることがなくなった。

 残念ながら、かつて自分の身近でどのくらいの種類の生きものたちが、どのくらいの数が居たのかよく分からない。個人的に記録をしたり、調査してきたわけではなかったからである。だが、感覚的に減ったと感じるし、減ったこと自体まずまちがいないだろう。

 20年くらい前からかもしれない。ただただ思うようになったことがある。

 あるお宅が解体され、それに伴って敷地の大小にかかわらず、庭もいったん更地になっていく光景。庭がなくとも玄関先などの脇にちょっとした草の生える余地があったし、それは路地伝いに繋がっていたと言える。

 古い家が解体されていくと、哺乳類としてはネズミが行き場を求めて姿を現わすこともあった。ネズミが出入りする空間は必ずといってよいほどあった。

 一方、虫などはどうするのか。やはりどこか近場の隠れ場所に逃れつつ、新たな棲みかを探して散っていったと思われる。そして、そのうちの一部は新たな場所を見つけて、そこを足掛かりにさらに移動していく個体もいたと思う。

 それでも徐々に、ときには一挙に棲息場所が消え、あるいは狭くなり減っていくことによって、ある地域において生存できる個体数はほぼ決まっていることを考え合わせれば、必ずしも安息の場所へ移動できたわけではなかっただろう。

 そのような状況が確実に進行してきた。街並みは確かに雑然さからある程度、整然とした方向へ変わり、「きれい」になりつつある。

 かつては庭付き一戸建てであれば庭に植物を植えるのが、今から思えば「流行」だったのかもしれない。今はまるで庭の草木というものに興味・関心がなくなって来たかのように思える。現在はかなり無機質な印象を受ける家の佇まいが多い。一つには草木を管理するのが面倒くさく、虫がついたりして嫌ったりするのかもしれない。隣家との間も狭く、3階建てなども多くなり、地面に日が当たらない所が増えたことも要因かもしれない。

 更地の状態の期間が長い場所にはシートが掛けられることも多くなった。雑草が生え、それを刈り取る労力や費用を考えるとそのほうが合理的ではある。

 自分が危惧してきたのは、移動していけるくらいの距離に飛び飛びにあった中継地となるようなお宅や空き地・路地の数が圧倒的に減り、その地域における生きものたちの小さな「絶滅」が所々で次々と起こりながら、その生きものたちの姿が消えた面積が広がっていると考えられることである。

 都市部に見られる生きものたちは今後、生き残り続けられるだろうか。例えば、都市化に適応してきたと思われるニホンヤモリはこのような住宅・建築物の建設が進んでいく中で、餌を確保し、卵を産みつけ、冬眠する場所が得られるのだろうか。そのような隙間さえつくらないように、あるいは塞いで締め出して来ているのではないかと思ってしまう。人はニホンヤモリが棲めないようなくらいに生きものの生活できる空間を潰して「きれい」にしていってしまうのだろうか。このままではもしかしたら、局所的には姿を見ることが難しくなるかもしれない。居場所をなくしていくさまはまるで学校の中で、子どもたちの個人的にひそかな安らぎに浸る居心地のよい場所をも「安全」の名のもとに目を光らせて奪っていくのにも似ている。

 小さな生きものたちは行き場を失いながらも、移動さえできれば取り敢えず、食べ物があったり隠れたりできる場所に辿り着けるかもしれないものの、それでも行き着く先がなく、息絶えていくものも多いような気がする。

 自分の身近な例をいくつか挙げれば、カマドウマを見掛ける機会がめっきり減った。狭いながら地域的には絶滅したんじゃないかと思っていたくらいだ。ニホントカゲはもはや見ることがない。仕事をするようになって少しでも居そうな場所に日中出掛けることがなくなったからかもしれない。かつてゲンゴロウがいた池はもうない。ミノムシはどこへ行ってしまったのか。

 小さい時、雨が止んだ後の水たまりに鮮やかな紫色の虫がたくさん水面に集まり覆っているのを、雲間からの日射しの下で眺めていた記憶がある。あのムラサキトビムシと思われる虫たちもその後、いつの頃からか姿を消し、もはや見掛けることはなくなった。

 そうしたことが他の普通種といわれる生きものたちにも迫っているのだと僕は考えている。

 山の荒廃が言われるようになり、半自然的あるいは二次的自然が存在する地域から、緑の「侵食」が進みつつあるという。やがて都市部の領域に緑が「侵入」してきたときにもしかしたら、生きものの分布の揺り戻しがあるのかもしれないなどと考えたりもするが、それを「救い」というにはそれこそ人間側に策が無さ過ぎる。日本の人口減少がこの先進むと、人工的な領域を維持できず、だんだん緑に吞み込まれていくに任せる所も出て来るのかもしれない。都市部に植生の遷移が進行していくとともに、生物群集の複雑さも増し、多様な生態系が互いに関連し合って出来上がって来る。そのことによってそれまで逃れて何とか生き延びていた種類の生きものたちがまた押し戻して盛り返せるのかもしれないと想像したりすると、その時の盛り返しが生きものたちの営みを断絶させない点で「救い」のように思えてしまうのだ。だが、やはりそのようなかたちではなく、人による再生や保全により、生きものたちが繋がる世の中であってもらいたいとは思うのだが……。緑の「侵食」は必ずしも人の思い描くような方向に進むとは限らない。

 今は衛星写真がとても手軽に見られるようになった。地域的に見れば宅地化の波に押され縮小してきた緑地が都市部にはたくさん見られる。宅地に囲い込まれた緑地はもはやそこから分布を広げようがないと思われる所も多い。皮肉にもそういう限られた場所がむしろはっきりと残っているのを見つけたりできる。

 一つ具体例を挙げれば、横浜市戸塚区にある舞岡公園に触れてみたい。かつての戸塚は横浜の丘陵地で、住宅の数は当然少なかった。舞岡川の水源地にもなっており、舞岡川は柏尾川へ、そして下って境川と合流し片瀬川となり、江の島を望む河口から相模湾へと注ぐ。

 現在、舞岡公園の周りに住宅地がぎっしり迫って来ている。かつて公園づくりに関わった方たちのおかげで宅地化の波はこれ以上、公園に及ばなくなっている。しかし、そうした取り組みが遅れていたらここも消えていたに違いない。

 こうした所を、生きものたちが何とか移動していける大小の拠点を、地域の生きものたちの生存の限界を迎える前までに、再生や保全によって飛び飛びにでも繋げていけるかが、それぞれの地域で問われている。

 生きものたちの空間的・時間的繋がりを保つためには人間側でもバトンを繋いでいかなければならない。

 学校教育がその一翼を担うならば、まずは学校そのものがそうした小さな拠点として、敷地を部分的に再生・保全していく必要があろう。しかし、極めて残念なことであるが、街にある学校を眺めていると、そのようにはまず見えない。見えない内部で取り組まれているのならよいことだが、見えるかたちでも行えることがあるだろう。

 学校での活動の主体は子どもたちであるが、子どもたちは入学してから何年か後には巣立っていく。学校はその基盤であり、学校側としての持続的な取り組みが不可欠である。

 それは環境教育を学校教育の一つとしてだけではなく、学校を含めた地域の環境自体が学校教育と一体なのだという認識を学校教育関係者が子どもたちより前に持たなければならない。それには教職員の中でも管理職、とりわけ校長の認識が大切である。そこにアプローチして変化をもたらすことができるのは、その道の学者・研究者や専門家の中で、フィールドに興味・関心を持たれている方々をおいて他にはいない。

 子どもたちが減ってきている状況で学校の統廃合も進む。再開発によって、学校の跡地が拙文の書き出しに記したような街並みの一つに変わる前に、それぞれの現存する学校は緑地の有無に関係なく、敷地内に学校の規模・機能に応じた生態系の再生・保全を模索し、まずは自分の身の周りに居る、あるいは居た地域在来の普通種を基本的に棲めるようにしてみることだ。それは、生きものの多様性を維持することに繋がり、かつSDGsの実践でもある。そのためには各学校における取り組み自体を持続可能なものにしなければいけない。さて、それはできるのだろうか。

 磯子高校の森は三浦丘陵の北端において、その拠点としての役割を担う価値ある場所であると、改めて僕は思い直している。

※2022(令和4)年8月5日、段落が分けられた表記ではなく、詰まって一続きになっていたのを修正しました。